明治時代の日本・韓国・中国の国情;(明治期の旅行家・イザベラ・バードの実録)
日光滞在時のイザベラ・バード
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)という人は、英国人の女性旅行家・紀行作家です。
生まれたのが1831(文政13)年、亡くなられたのが1904(明治37)年です。
彼女は、江戸~明治期のシナ、朝鮮半島、日本を紀行し、数々の写真とともに、当時の3国の状況を仔細に観察し、述べています。
彼女は、1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜けての旅をしました。
彼女の『日本奥地紀行』では当時の日本を結論的にこう書いている。
『 私はそれから奥地や蝦夷を1200マイル(1930km)に渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている 』
特に、栃木から鹿沼市へ抜ける日光杉並木を観て、「よく手入れされた麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感した」と綴っています。
また日光で滞在した金谷邸では、その内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在したうえ、日光の景勝地を探訪しています。
日光滞在10日目に訪れた奥日光では、梅雨時の豊かな水と太陽に育まれた植物・・・
コケ、シダ、木々の深緑、そして鮮やかに咲き誇る花々が、中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様子を闊達に描写し、惜しみない絶賛を与えています。
街道の終点である湯元では、温泉を訪れている湯治客の様子を詳細に記し、その宿屋が
「たいへん清潔である」と評し、
そして
「ここは埃まみれの人間ではなく、妖精が似合う宿である」とまで形容した。
さらに山形県の赤湯温泉では、置賜地方を「エデンの園」と称え、
その風景を「東洋のアルカディア」と評した。
※アルカディア=ギリシャ神話に出てくる理想の楽園
彼女は、『日本奥地紀行』では当時の日本を次のように書いています。
「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で、日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている。」
「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。
子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。」
「いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むが、それと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。
子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。」
「ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。」
「ほんの昨日のことであったが、革帯一つ、忘れものをしていた。
もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。
彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。」
「彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。」
「日本の大衆は一般に礼儀正しいのだが、例外の子どもが一人いて、私に向かって、中国語の「蕃鬼」(鬼のような外国人)という外国人を侮辱する言葉に似た日本語の悪口を言った。
この子はひどく叱られ、警官がやってきて私に謝罪した。」
「家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、まる一時間も私をあおいでくれた。
料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受けとらなかった。
彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだ、と言った。」
「吉田は豊かに繁栄して見えるが、沼は貧弱でみじめな姿の部落であった。
しかし、山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。
これはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者の畑」は、日本には存在しない。」
「どこでも警察は人々に対して非常に親切である。
抵抗するようなことがなければ、警官は、静かに言葉少なく話すか、あるいは手を振るだけで充分である。」
「警察の話では、港に2万2千人も他所から来ているという。
しかも祭りに浮かれている3万2千の人々に対し、25人の警官で充分であった。
私はそこを午後3時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。
私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。
どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。」
「私はどこでも見られる人びとの親切さについて話したい。二人の馬子は特に親切であった。
私がこのような奥地に久しく足どめさせられるのではないかと心配して、何とか早く北海道へ渡ろうとしていることを知って、彼らは全力をあげて援助してくれた。
馬から下りるときには私をていねいに持ち上げてくれたり、馬に乗るときは背中を踏み台にしてくれた。
あるいは両手にいっぱい野苺を持ってきてくれた。それはいやな薬の臭いがしたが、折角なので食べた。」
「私の宿料は《伊藤の分も入れて》一日で三シリングもかからない。
どこの宿でも、私が気持ちよく泊れるようにと、心から願っている。
日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、そこから離れた小さな粗末な部落にしばしば宿泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。
世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較できるようなものはあるまいと思われる。」
「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったり融けあう。
彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけて感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」
「しばらくの間馬をひいて行くと、鹿皮を積んだ駄馬の列を連れて来る二人の日本人に会った。彼らは鞍を元通りに上げてくれたばかりでなく、私がまた馬に乗るとき鐙をおさえてくれ、そして私が立ち去るとき丁寧におじぎをした。このように礼儀正しく心のやさしい人びとに対し、誰でもきっと好感をもつにちがいない。」
「伊藤は私の夕食用に一羽の鶏を買って来た。ところが一時間後にそれを絞め殺そうとしたとき、元の所有者がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼女はその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の未開の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、ここは人情の美しいところであると感じた。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
バードは、朝鮮を1894年に訪問しています。
釜山、ソウルに滞在した後、漢江流域を踏査し元山へ、そして同年11~12月にはロシア領内の朝鮮人社会を視察した。
そこで「朝鮮奥地紀行」を著します。
当時の朝鮮は、日本が統治する以前、李氏朝鮮末期の時代にあたります。
「朝鮮人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、人間同士の信頼は薄い。女性は隔離され、ひどく劣悪な地位に置かれている。」
「政府、法律、教育、礼儀作法、社会関係そして道徳における中国の影響には卓越したものがある。これら全ての面で朝鮮は、強力な隣人の弱々しい反映に過ぎない。」
「私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また紹興(中国浙江省北部の県)の悪臭に出会うまではもっとも悪臭のひどい都市と考えていた。
大都市、首都にしてはそのみすぼらしさは名状できない程ひどいものである。」
「礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。
その結果、25万人と見積もられている人びとが“地べた”、主として迷路のような路地で暮らしている。
その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。
実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。
さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたドブと、そしてその汚れた臭い縁によって一層狭められている。」
「ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。
公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せものも無い。
劇場も無い。
ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。
ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。
しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルは寺院無しの状態で放置されている。
一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓がないままにされている。」
「ミラー氏と召し使いが綱を強く引っ張っている時、私はしょっちゅう川岸沿いに独りぼっちで、2時間か3時間ぶらついていた。
その小道が淋しい所かまたは村に通じていようがいまいが、私は、ひどく躾の悪い遣り方で示された好奇心以上の不愉快なものには、一度も出会わなかった。
そしてそれは、主として女性によるものであった。」
「その肩に税の重荷が掛かっている人びと、つまり特権を持たない厖大な大衆が、両班にひどく苦しめられているのは、疑いない事である。
両班は代金を支払わないで、人びとを酷使して労働させるばかりでなく、さらに貸し付け金の名目で、無慈悲に強制取り立てを行なっている。
ある商人か農夫がある程度の金額を蓄えたと噂されるか知られると、両班または役人が貸し付け金を要求する。」
「女の人たちと子供たちは山のようになって、私の寝台の上に坐った。
私の衣服を調べた。
ヘアピンを抜いた。
髪を引き下ろした。
スリッパを脱がした。
自分たちと同じ肉や血なのかどうか見るために、私の着物の袖を肘まで引き上げて、私の腕を抓った。
私の帽子を被ってみたり、手袋を嵌めてみたりしながら、私のわずかばかりの持ち物を詳しく調査した。」
「長安寺から元山への内陸旅行の間、私は漢江の谷間でよりも、朝鮮の農法を見る良い機会に恵まれた。
日本のこの上なく見事な手際のよさと、中国の旺盛な勤勉に比べて、朝鮮の農業は無駄が多く、だらしない。」
「朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓と考え、その状況を希望の持てないものと見做すようになっていた。」
「私は出発する前に、無感動できたなく、ぽかんと口を開け、貧しさにどっぷり浸っている群集に包囲されて、宿屋の中庭のごみ、むさ苦しさ、がらくた、半端物の真ん中でじっとしていた。
朝鮮人は見込みのない、無力で哀れな痛ましい、ある大きな勢力に属している単なる羽に過ぎない、と感じた。」
「もしある人が小金を貯めた、と伝えられると、役人がその貸与を要求する。
仮にその要求を承諾すると、貸し手は往々にして元金または利息に二度と会えなくなる。
もしその要求を拒絶すると、その人は逮捕され、破滅させるために捏造されたある種の罪で投獄される。
そして要求された金額を差し出すまで、彼か親類の者が鞭打たれる。」
(これって、いまの日本?!)
「狭量、千篇一律、自惚れ、横柄、肉体労働を蔑む間違った自尊心、寛大な公共心や社会的信頼にとって有害な利己的個人主義、二千年来の慣習や伝統に対する奴隷的な行為と思考、狭い知的なものの見方、浅薄な道徳的感覚、女性を本質的に蔑む評価などが朝鮮教育制度の産物と思われる。」
「朝鮮の大きくて普遍的な災難は、大勢の強壮な男たちが、少しましな暮らしをしている親類か友人に頼るか“たかり”に耽る習慣である。
それを恥としないし、非難する世論も無い。
少ないけれども一定の収入がある人は、多くの親類、妻の親類、大勢の友人、親類の友人たちを扶養しなくてはならない。」
「1897年の明確に逆行する動きにも拘わらず、私はこの国の人びとの将来に希望が無いとは決して思わない。だが、次の二つの事が非常に重要である。
1、朝鮮は、内部からの改革が不可能なので、外部から改革されねばならない事。
2、君主の権力は、厳しくて永続的な憲法上の抑制の下に置かねばならない事。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
バードは1895年12月に上海に渡ります。
上海から揚子江を万県まで遡り、さらに陸路を保寧府、成都まで進んだ。
彼女は、中国社会の活力と公正さを高く評価しるけれど、それは“最悪”の朝鮮社会を見た直後だったからかもしれない。
「中国人は無学であるし、信じがたいほど迷信深い。だが、概していえば、いろいろな欠点はあるにしろ、ひたむきさという点では他の東洋民族にはないものがあるように思われる。」
「〈文人階級〉の多くの人々の無知さ加減はひどい。
それは宿坊での会話の中にとめどもなく現われてくる。
軍のある高官は、劉を頭とする黒旗軍が台湾から日本人を駆逐したとか、劉が神々に誓った誓いと祈りが功を奏して台湾海峡が大きく口を開いたとか、ロシア、イギリス、フランス、日本の海軍が戦渦に広く巻き込まれ、やられてしまったとか言って憚らなかった」
「中国で仁が重んじられているという印象は日常生活からはさほど受けない。
中国人の性格に関するこの国での一般的な見解は、冷酷、残忍、無慈悲で、徹底して利己的であり、他人の不幸に対して無関心であるというものである。」
「彼女たちの質問はまことに軽薄だったし、好奇心は異常なまでに知性を欠いていた。
この点で日本人の質問とは好対照だった。
ここには、していることに目新しさも多様さもなく、食べることと書くことだけをしている人間を何時間にもわたってジロジロ見ることに費やすという、大人としての異常なまでの無神経さが見てとれた。」
「群集はどんどん増え、囃し立てたり怒鳴ったりして、どんどんやかましくなった。
口々に『洋鬼子』、『外国の悪魔』とか『吃孩子(子供食い)』と叫ぶ声がどんどん大きくなり、怒号と化していくのがわかった。
狭い通りはほとんど通れなくなった。
私が乗った車は、何度も何度も棒で叩かれた。
泥や嫌な臭いのするものが飛んできて命中した。
ほかの連中よりも大胆なのか臆病なのかわからないが、一人の身なりのよい男が私の胸を斜めに強打した。
叩かれたところはみみず腫れになった。
後ろから両肩を強打する連中もいた。
わめく輩は最悪だった。
激昂した中国の暴徒だった。」
「信じられないような汚さ、古期英語を用いないと表せないようなひどい悪臭、薄汚なさ、希望のなさ、騒がしさ、商売、そして耳障りな騒音は中国の都市に共通する特徴である」
「中国の町のごろつき連中は、無作法で、野蛮で、下品で、横柄で、自惚れが強く、卑劣で、その無知さ加減は筆舌に尽くせない。
そして、表現することも信じることもできないような不潔さの下に暮らしている。
その汚さといったら想像を絶するし、その悪臭を言い表せる言葉は存在しない。
そんな連中が日本人を、何と『野蛮な小人』と呼ぶのである!」
「トルコやペルシャ、カシミール、朝鮮を、私のように数年にわたって旅したことがある人なら、中国の人々が虐げられた国民などではさらさらないことがわかって驚くことになる。
また、現制度下にあってさえ、賄賂はあるものの税は軽く、働けば金になり、理にかなった自由もかなりあることがわかって驚くことになる。」
「大勢の薄汚い役人が何もせずにぶらぶらしているといったことはなかった。この点は朝鮮とは異なっていた。」
「飛び道具は手近にいくらでもあった。石の一部は轎や轎かきに当たったし、私の帽子にも当たって帽子が飛ばされてしまった。
『外国の悪魔』とか『外国の犬』という叫び声のすさまじさといったらなかった。
石が轎めがけて雨霰のように投げつけられた。
そして一つの大きな石が私の耳の後ろに命中した。このひどい一撃によって、私は前に倒れ込み、気を失ってしまった。」
「病気の苦力は木の下に横たえられた。
そこで私はその男の燃えるような額に濡れたハンカチを当ててやった。
その時、中国人の潜在的な残虐性が現われた。
あの実に愛らしい創造物である観音が広く崇拝されているのに、この連中には何の感化も及ぼしていないことがわかった。
何も運んでいない苦力が5人いたので、一匹のラバの荷物を5人で分け合い、病気の男をラバに乗せるように提案してみたけれど、拒絶したのである!
この12日間、寝食をともにしてきた男なのに、である。
しかも、お前達はこの男をここに置き去りにして死なせるつもりかと尋ねると、彼らはせせら笑いながら、『死なせればいい。もう何の役にも立ちませんぜ』とのたまった。
病気の男が懇願した水が目と鼻の先にあったにもかかわらず、それをやろうとさえしなかった。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後に、ペリー提督の日本評をひとつ。
「日本人は自分の祖国に対しては感激家で、先祖の偉業を誇りとしている。
教養ある人も普通の人も天皇の古い皇統に対し限りない愛情を抱き、古い信仰や風俗習慣を重んじる。
それゆえ外国人が、日本人の民族性に追従し、彼らの宗教や風俗習慣を尊重し、そして原始時代の伝統や神として崇められた英雄の賛美に好意をもって耳をかたむける。」
≪おまけ≫
「日本人は笑い上戸で、心の底まで陽気である。
日本人ほど愉快になりやすい人種は殆どあるまい。
良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。
そして子どものように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである。」
(仏人、ボーヴォワル)
「関連記事」
義和団事件とコロネル・シバ (09/26)
戸籍について考える (09/25)
イザベラ・バードの日・中・韓紀行 (09/23)
日本の良心を守れ! (09/21)
日本の勝利はアジアの偉大な救いだった (09/20)
、